どうする家康の石川数正の出奔理由!なぜ豊臣秀吉の味方に?

石川数正(松重豊)は大河ドラマ(どうする家康)でも史実の通り徳川家康(松本潤)の右腕として活躍する姿がしっかりと描かれています。そして人質になった瀬名(有村架純)と息子竹千代を今川氏真(溝端順平)より救出するシーンもきちんと描かれていますが、なぜか豊臣側へ出奔しています。石川数正の生涯(最期)、なぜ豊臣秀吉の味方になったのか?などについて調べてみました。

目次

どうする家康の石川数正の生涯

石川数正(松重豊)が家康に仕えるようになったきっかけ

石川数正(松重豊)の父親は石川康正で母親は松平 重吉の娘です。数正が家康に仕えるきっかけになったのは元々、石川家が松平氏に仕えていた家だったためです。1549年、当時の松平竹千代(後の徳川家康)が今川家に人質として送られる時に、数正は同行し、幼少期からの家康を支えた重臣といえる存在です。石川数正の父、石川清兼は徳川家康の祖父である松平清康、そして家康の父、松平広忠、家康と三代にわたり仕えた、松平家の重臣です。母親については、不明な点が多いです。三河の国で一向一揆が起きた際、石川数正は家康に味方し、父の清兼は一揆に加担したことにより父と決別したと言われています。

石川数正(松重豊)と織田信長や徳川家康との年齢差

石川数正(松重豊)と織田信長(岡田准一)との年齢差は数正が1533年生まれであり信長が1534年に生まれなので信長よりも1歳数正が年長者といえます。
また、石川数正(松重豊)と徳川家康(松本潤)の年齢差ですが徳川家康が1543年の生まれなので10歳ほど石川数正が家康よりも年長者という事になります。

石川数正(松重豊)が家康に仕えていた時に活躍したエピソード

三河一向一揆が起きた時、父が一揆側であったにも関わらず数正(松重豊)は、家康に加勢して戦いました。また数正は徳川家を自立させるため、協力者をみつけるため近隣諸国と外交交渉を行い、織田信長(岡田准一)との同盟を成功させる重要な役割を演じます。瀬名(有村架純)が、今川氏真(溝端順平)の人質になった際は、単身、今川家に乗り込んで瀬名(有村架純)と息子竹千代の救出に尽力しました。また、家康が戦った主要な戦いには数多く出陣します。特に織田信長(岡田准一)が亡き後に豊臣秀吉(ムロツヨシ)と戦った、小牧・長久手の戦いでは、これ以上の戦いは無理があると家康に対して秀吉との和睦をすべきと提言したと言われています。

瀬名姫のその後(生涯)については、こちらに書いています↓↓

石川数正の出奔理由

石川数正がなぜ豊臣秀吉の味方に?

豊臣秀吉(ムロツヨシ)と徳川家康(松本潤)と対決した小牧長久手の戦いで秀吉が優勢な中で戦いを終結させた後、次第に家康に対して、秀吉は、自分に臣従する要求を強めていきます。この時に人質などの条件面で徳川方として具体的な交渉を行っていたのが数正です。数正は秀吉に自分の家族も人質となり、家康と秀吉の間の交渉をする間に次第に心労もたまり、より権力のある秀吉に付いた方が家運が広がると判断し、主君を家康から秀吉に変えたと考えます。また、今まで石川数正(松重豊)は徳川家康(松本潤)の元で数々の交渉を成功させてきた為、それを妬む、他の徳川家の家臣から妬まれたとあります。石川数正(松重豊)は徳川家康(松本潤)に迷惑がかからないように出奔したとも考えられます。

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石川数正の最期について

数正の最後は諸説ありますが、ますご紹介したいのが1592年に起きた朝鮮出兵の時での最後です。秀吉が天下統一の後行った朝鮮出兵のため、数正は500騎ほどの兵を率いて肥前国の名護屋城に出陣します。その陣中に発病し没したとする説です。享年では61歳となります。また異説として、文禄元年(1592年)12月に京都の七条河原にて葬儀が行われたという記述もあります。いずれしても家康や秀吉よりも早くこの世をさったのではと考えられます。

石川数正(松重豊)の最期を知った家康の気持ち

石川数正(松重豊)がこの世を去ったのは諸説ありますが、いずれにしても時期的に言うと秀吉がまだ存命中の時期です。この時期の家康は、秀吉の臣下でありながら全国の有力大名の中では最有力の実力を既に有していた大名です。家康にとって数正は自分が人質生活を送ってきた頃から仕え、三河統一までに乗り越えなければいけなかった三河一向一揆などで尽力してくれた不可欠な人物でした。このため数正の訃報を知った家康はできれば自分の関ヶ原以降の姿を見て欲しかったという残念な思いがあるのではと考えます。

「どうする家康」を演じているキャスト一覧はこちら!
登場人物の最期について書いています。

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どうする家康での石川数正のまとめ

徳川家創業を主に外交面で支えた石川数正(松重豊)。順調にいけば彼の一族は徳川家の重臣として江戸時代でも君臨できた家柄になりえたと考えます。しかし、家康の元を去り秀吉の臣下になってしまいました。秀吉の臣下になったのは、数正にとり自分が徳川家の外交交渉を行いながら、当時の秀吉の絶大な権勢に押されてしまい、徳川家の立場を秀吉に認めさせる事に限界を感じていたのではと考えます。このため、家康の将来よりも秀吉の将来に家運を、賭けてみたいと考えた人生を送ったと思います。

石川数正(松重豊)は徳川家康の懐刀と書かれるほど徳川家に親子で忠義を尽くした武将です。瀬名姫の人質救出や、織田信長との外交や武田信玄との対決など、つらい今川義元の人質生活を支えたのも石川数正です。徳川家康がまさにピンチの時、陰日向となり支えた忠臣。石川数正がいなければ、徳川家康が天下を取る事は出来なかったと言っても過言はないと思います。

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