紫式部は何歳で亡くなったんでしょうか?また、どのような最期を迎えたのか?もしかして、何らかの政変に巻き込まれたのか?何かの病気にかかって亡くなったのか?色々と気になったので調べてみました。また、紫式部の墓と言われている場所についても、アクセス方法や言われについて調べています。地獄に落ちそうになったのを助けたと言われる小野篁(おののたかむら)についての情報もありますので、大河ドラマ「光の君へ」の視聴の参考にしてみてください。
紫式部の誕生日について
紫式部の誕生日に関する話題は、文学ファンにとっては特に興味深いものです。紫式部は、「源氏物語」の著者として世界的に知られていますが、彼女の正確な生年月日は不明なんです。最新の研究によれば、970年から978年の間に生まれたと推測されています。あくまで推測です^^;。
紫式部は、平安時代の貴族社会で育ち、幼少期から文学に深い関心を示していました。彼女の父、藤原為時は、下級貴族でありながら花山天皇に漢学を教えた漢詩人兼歌人でした。このような環境で育った紫式部は、家にある歌集や書物を読み漁り、文学への造詣を深めていきました。
998年頃、紫式部は藤原宣孝と結婚し、一女をもうけます。この娘もまた、小倉百人一首に名を連ねる歌人として知られています。夫との死別後、紫式部は「源氏物語」の執筆に取り組み始め、その後、藤原道長の娘である彰子に女房として仕えました。
紫式部の没年や死因については明らかになっていませんが、1014年頃に40歳前後で亡くなったとされています。
紫式部の最期(何歳で亡くなったのか)
紫式部と言えば、「源氏物語」の作者として非常に有名ですよね。しかし、その生涯や最期については、意外と知られていないことも多いです。
まず、紫式部が亡くなったのは、1014年から1031年の間とされていますが、正確な年は不明です。なんと、紫式部の最期に関する記録は残されていないんですよ。ただ、彼女が生きた平安時代は、政治的な粛清(しゅくせい)も珍しくない時代でしたから、そのような背景も含めて、彼女の死因については様々な憶測が飛び交っています。
紫式部の晩年は、どのように過ごされたのでしょうか。実は、これも謎に包まれています。ただ、彼女が宮廷を去った後の動向については、いくつかの記録が残されており、彼女が宮廷を去った後も、藤原実資という人物と親しい関係にあったことが伺えます。
紫式部の死因についても、はっきりとはしていませんが、当時の平均寿命を考えると、何らかの病による自然死が考えられます。彼女の享年も、40代後半から50代と推測されていますが、これもまた正確なことはわかっていません。
紫式部が他界したのち地獄に落ちたと言われる理由
紫式部が他界した後、地獄に落ちたと言われる理由について、ちょっと興味深い話があります。『源氏物語』の著者として知られる紫式部ですが、その作品の内容や、当時の宗教観、さらには社会的な背景など、色々な要因が絡み合って、こんな話が生まれたようです。
地獄に落ちたと言われる理由
『源氏物語』が関係しています。源氏物語は、世界最古の長編小説としても有名ですが、その中で描かれている恋愛模様や人間関係が、当時の仏教徒からはちょっと問題視されることもあったようです。
欲望に基づく行動や世俗的な愛情は、特に当時の人からは煩悩とされていて、苦しみの源だと考えられていたからです。
平安時代の仏教では、人の死後の世界は、生前の行いによって決まるとされていました。『源氏物語』のように、世俗的な愛を美化する内容は、煩悩に満ちた生き方を助長するものとして、批判されることにもなったようです。
あと一つの理由ですが、紫式部が、女性でありながら高い教養を持ち、男性中心の社会で文学作品を残したこと自体、当時の社会規範に挑戦する行為と見なされていた面もあるようです。そのため、紫式部の死後、紫式部の行いや作品が原因で地獄に落ちたという話が生まれたのかもしれません。
小野篁(おののたかむら)との関係
平安時代の著名な文学者である紫式部と、小野篁の間には、不思議な繋がりがあると言われています。実は、京都において、紫式部と小野篁(おののたかむら)のお墓が並んで存在することが、多くの方々の興味を引いているんですよ。ただし、実際には紫式部と小野篁が生きた時代には、約200年ほどの時差があるんです。それでも、なぜ彼らの墓が隣り合わせにあるのでしょうか。
紫式部は、若い頃に母親を亡くし、その後は父である藤原為時によって育てられました。為時は漢学や和歌を教えるなど、非常に教養のある人物でした。紫式部は特に才能があり、兄よりも早く漢文を習得したと言われています。
「源氏物語」の執筆を始めたのは、夫と死別した後とされ、1007年頃から一条天皇の中宮彰子に仕え、1012年頃まで作品を書き続けたと考えられています。紫式部の住まいが廬山寺にあったとも伝えられており、そこで「源氏物語」を含む数々の作品を書いたとされます。
一方、小野篁は冥界の裁判官としての役割を担い、閻魔大王によってその任に就けられたという伝承があります。彼は夜に冥界へと行き、朝には現世に戻ってきていたと言われています。このような伝説から、小野篁は特異な存在として語り継がれています。
紫式部と小野篁のお墓が隣同士にある理由には、紫式部の出生地とされる場所であること、そしてその地が蓮台野という葬送の地に近いことが関係しているかもしれません。また、煩悩に満ちたと考えられた「源氏物語」を書いたことで、死後に地獄に落ちたとされた紫式部ですが、小野篁が紫式部を地獄から救出し、自分の墓の隣に埋葬したという話が残っています。よくできていて、興味深いですね。
紫式部の墓所について
紫式部の墓所の場所
住所は、〒603-8165 京都府京都市北区紫野西御所田町です。
島津製作所紫野工場のそばにあります。
紫式部の墓所のアクセス
京都駅からですと、車で行けば20分程度で到着できます。