藤原道綱(道長の異母兄)のプロフィール!蜻蛉日記との関係も!

藤原道綱(道長の異母兄)のプロフィールについてまとめてみました。藤原道長の異母兄が藤原道綱です。
道綱は、道長とは異なる道を歩みながらも、その時代において独自の足跡を残した人物。
特に、彼の母が記した「蜻蛉日記」は、平安時代の貴族社会のリアルな一面を今に伝える貴重な文学作品として知られています。
この記事では、藤原道綱の生涯と、彼を取り巻く家族、そして「蜻蛉日記」についても書いています
また、大河ドラマ「光る君へ」で道綱を演じる上地雄輔さんのプロフィールについても紹介しています。

目次

藤原道綱(道長の異母兄)のプロフィール

性格は、おとなしいおっとりした性格だったようです。このことは、道綱の母親が書いた「蜻蛉日記」で紹介されています〜!
ドラマのキャストである「上地雄輔」さんのような感じだったんでしょうか?

藤原道綱の父親について

藤原道綱さんのお父様は、藤原兼家(ふじわらのかねいえ)です。兼家は、摂政関白太政大臣として知られる、まさに平安時代を代表する政治家の一人。そんなお父様のもとで、道綱さんは成長されたわけですが、政治の世界だけでなく、文学においてもその才能を発揮されました。お父様から受け継がれた政治的な才能もさることながら、文学への深い理解と愛情も、お父様からの影響があったのかもしれませんね。

藤原道綱の母親について

お母様は、藤原道綱母(みちつなのはは)として知られる藤原倫寧(ふじわらのともやす)の娘です。特に有名なのは、『蜻蛉日記』(かげろうにっき)の作者としての側面。
この日記は、当時の貴族社会の生活や、母としての葛藤、女性としての感情が綴られており、後世に大きな影響を与えました。お母様の文学への深い洞察力や表現力は、道綱さんにも受け継がれたのではないでしょうか。文学作品を通じて、お母様の思いや生き様を知ることができるのは、とても素敵なことですよね。

ご両親から受け継がれたもの

藤原道綱さんは、お父様からは政治的な才能や社会で生きるための知恵を、お母様からは文学への愛と表現の豊かさを受け継がれました。この二つの才能が融合することで、道綱さんはただの公卿・歌人にとどまらず、時代を超えて人々に影響を与え続ける存在になったと思います。

藤原道綱さんの奥様は、どんな人?

藤原道綱さんの奥様は、源広の娘さんで、他にも藤原季孝の娘さんや源満仲の娘さんなど、複数の方が奥様として記録されています。
平安時代の貴族社会では、複数の妻を持つことが珍しくなく、それぞれの奥様が異なる家庭や政治的背景を持ち込んでいたようですね。これらの結びつきが、道綱さんの政治的なキャリアにも大きな影響を与えていたのは間違いないと思います。

奥様たちとの関係は?

残念ながら、具体的な日常の様子や夫婦間のエピソードが詳細に記録されているわけではありませんが、奥様たちとの間には複数の子どもたちが生まれています。
これは、当時の貴族社会において、後継ぎを多く持つことが重要視されていたことを物語っています。
大河ドラマ「光る君へ」では、どのように描かれるのか気になるところです〜。

藤原道綱(ふじわら の みちつな)と蜻蛉日記との関係

蜻蛉日記(かげろうにっき)について

「蜻蛉日記」は、10世紀後半の平安時代に藤原道綱母によって書かれた日記です。この作品は、作者自身の結婚生活や宮中での生活、そして夫である藤原兼家との複雑な関係を綴ったもので、日本最古の女性による日記文学の一つとされています。
平安時代の女性が直面した社会的制約や、夫婦間の感情の機微、そして女性自身の内面的な葛藤を繊細に描き出しています。特に、藤原道綱母(作者)が夫との間に感じた孤独や疎外感この日記は、後の世に大きな影響を与え、女性の立場から書かれた文学作品の先駆けとなりました。

簡単に言うと、ぶっちゃけ話です(失礼^^;)!

作者の旦那(藤原兼家)は、権力もあり、女性にもモテモテだったとのことですので、色々と気になることは多かったんだと思います。
ちょっと、切ないですね。

蜻蛉日記(かげろうにっき)と藤原道綱の関係

蜻蛉日記(かげろうにっき)の作者は、藤原道綱の母です。そして、蜻蛉日記の中には家庭の状況が生々しく描かれているとのことです(私も、まだ全部読んだことはありませんが^^;)。
作者(母親)の息子に対する深い愛情や、将来を案じる母親の心情などについて、この日記の中で書かれれいるとのとことです〜!

原文はこちらです〜!

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藤原道綱(ふじわら の みちつな)を象徴するエピソード

寛和の変(かんなのへん)での活躍

寛和の変(かんなのへん)での活躍が有名です。
寛和の変は、986年に藤原道綱の父である藤原兼家さんの策略により、65代花山天皇が退位に追い込まれた政変です。
藤原道綱は、この政治的な動きの中で、非常に重要な役割を担われました。
具体的には、兄である藤原道隆と共に、三種の神器を安全な場所へと運び出す任務にあたられたのです。この行動は、新たな天皇の即位に必要不可欠なものであり、彼らの行動がなければ、摂関政治の安定は保たれなかったかもしれません。

三種の神器とは?

日本の皇室が受け継ぐ、国家の象徴ともされる三つの神聖な宝物です。これらは、日本の皇位継承の正当性を象徴し、古来より皇室によって大切に保管されてきました。

神器の名称説明現在の保管場所
八咫鏡
(やたのかがみ)
天照大神が岩戸から出る際に使用されたとされる鏡。神々の世界とこの世をつなぐ道具とされる。伊勢神宮(内宮)
草薙剣
(くさなぎのつるぎ)
素戔嗚尊が八岐大蛇を退治した際に発見した剣。勇気や力の象徴。熱田神宮
八尺瓊勾玉
(やさかにのまがたま)
天の岩戸隠れの際に天照大神を岩戸から引き出すために使用された勾玉。豊かさや生命力の象徴。皇室に保管(公開されていない)
三種の神器について

藤原道綱(ふじわら の みちつな)の最期

藤原道綱(ふじわら の みちつな)の最期についてですが、簡単に言うと病気で亡くなられているようです。
どんな病気で亡くなったかについては、はっきりした記録が残されていないようです。
ただし、病気になってから何年も経ってなくなったのではなく、病気になってからすぐに他界されているというのは記録に残されているようです。他界した年齢は享年66歳とのことです。寛仁4年(1020年)10月15日です。

道綱の最期の日々は、法性寺で出家された後に過ごされ、1020年10月15日に亡くなられています。
出家という行為は、当時の貴族社会においては、人生の終わりに向けての精神的な準備として行われることが一般的でした。これは、病による苦しみからの解放や、来世での幸福を願う意味合いが強かったと考えられます。

大河ドラマ「光る君へ」でのキャスト(上地雄輔について)

上地雄輔(かみじ ゆうすけ)のプロフィール

プロフィールをチェック!

生年月日は、1979年4月18日生まれ(2024年の4月の誕生日で45歳)の上地さんは、神奈川県横須賀市出身。
身長180cm、血液型はO型です。
俳優としてだけでなく、歌手「遊助」としても活躍されています。そんな上地雄輔さんは、結婚されており、お父さんは横須賀市長の上地克明さんです。

芸能界デビューのきっかけ

上地さんの芸能界入りのきっかけは、なんと野球から。
中学時代には日本代表として活躍し、高校進学時には38校もの野球推薦のオファーがあったほど。
しかし、芸能界のスカウトを受け、俳優の道を歩むことに。1999年、ドラマ『L×I×V×E』で俳優デビューを果たされました。

ブレイクの瞬間

2007年、『クイズ!ヘキサゴンII』での「おバカタレント」としてのキャラクターが受け、ブレイク。
さらに、つるの剛士さん、野久保直樹さんと「羞恥心」を結成し、歌手デビューも果たされています。
懐かしいですね〜!
上地さんの魅力は、その多才な才能だけではありません。野球選手としての夢を持ちつつ、俳優、歌手として成功を収めた彼の人生は、多くの人に夢や希望を与えています。また、彼の人柄も魅力の一つ。『行列のできる法律相談所』で「業界人が選ぶ芸能界で1番性格のいい人」に選ばれたこともあります。

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