鶴崎踊の歴史と由来|大友宗麟や立花道雪との関係を解説

鶴崎踊は、大分県大分市の鶴崎地区で受け継がれている伝統的な盆踊りです。

約460年以上の歴史を持つとされ、現在では大分県を代表する郷土芸能の一つとして知られています。

鶴崎踊には、しっとりと優雅に舞う「猿丸太夫」と、軽快なリズムで踊る「左衛門」の2種類があります。本場鶴崎踊大会では、華やかな衣装をまとった大勢の踊り手が大きな輪を作り、横笛や胡弓、太鼓などの音色に合わせて踊ります。

鶴崎踊の始まりには、戦国大名の大友宗麟と、その重臣で後に立花道雪と呼ばれた戸次鑑連にまつわる物語が伝えられています。

この記事では、鶴崎踊の歴史や由来をはじめ、大友宗麟と立花道雪との関係、猿丸太夫と左衛門の成り立ち、文化財として守られている理由をわかりやすく紹介します。

鶴崎踊の歴史を知ってから大会を見ると、踊りの動きや音楽だけでなく、鶴崎の人々が守り続けてきた文化の奥深さも感じられます。

目次

鶴崎踊は約460年以上続く伝統芸能

鶴崎踊は、大分市鶴崎地区で古くから踊り継がれてきた盆踊りです。

起源は1560年ごろまでさかのぼると伝えられており、2026年時点では約460年以上の歴史を持つことになります。

ただし、現在見られる鶴崎踊が、1560年ごろからまったく同じ形で続いているわけではありません。

音楽や衣装、踊り方、開催方法などは時代に合わせて変化しながら、地域の人々によって受け継がれてきました。

鶴崎地区の盆踊りとして受け継がれてきた

鶴崎踊は、もともと鶴崎地区の各町で、お盆の前後に行われていた供養踊りと考えられています。

現在のように広い会場へ多くの踊り手が集まる形式ではなく、各町の通りに屋台や踊り場を設け、地域ごとに踊られていました。

盆踊りには、先祖の霊を迎え、供養する意味があります。

鶴崎でも、初盆を迎えた家の供養や地域住民の交流を兼ねて踊りが行われてきました。そのため鶴崎踊は、単なる娯楽ではなく、地域の人々がつながりを確かめる大切な行事でもあったのです。

江戸時代の鶴崎では、踊りに合わせて仮装や地芝居のような装いを楽しむ文化もあったとされています。

現在の本場鶴崎踊大会で見られる華やかな衣装や、団体ごとに趣向を凝らした演出には、昔から続く仮装踊りの文化が影響していると考えられます。

大正時代になると、各町で個別に踊る形式から、一つの場所に集まって盛大に開催する形式へと変化しました。

地域ごとに行われていた供養踊りが、やがて鶴崎を代表する大規模な郷土行事へ発展していったのです。

鶴崎駅の開業後に「鶴崎踊」の呼び名が広まった

鶴崎では古くから盆踊りが行われていましたが、「鶴崎踊」という名称が広く使われるようになったのは、明治時代の終わりから大正時代にかけてといわれています。

1914年に鶴崎駅が開業すると、鉄道を利用して周辺地域から踊りを見に来る人が増えました。

鶴崎の町で行われる特徴的な踊りとして注目されるようになり、次第に「鶴崎踊」という呼び方が定着していったとされています。

交通が便利になったことで、鶴崎地区の中だけで親しまれていた盆踊りが、町外の人々にも知られるようになりました。

華やかな衣装や大きな踊りの輪を見ようと多くの人が鶴崎を訪れるようになったことが、現在の本場鶴崎踊大会につながっています。

また、大正時代には初盆の供養踊りを競い合う形式が取り入れられ、衣装や仮装を工夫する文化がさらに盛んになりました。

団体ごとに衣装をそろえ、踊りの美しさや統一感を競う現在の大会にも、その名残を感じられます。

鶴崎踊は、古い形をそのまま保存してきたのではなく、鉄道の開通や町の発展に合わせて、規模や見せ方を変えながら受け継がれてきた伝統芸能です。

左衛門の由来と大友宗麟・立花道雪の関係

鶴崎踊には、「左衛門」と「猿丸太夫」の2種類があります。

このうち、歴史的に古いとされているのが、軽快なテンポで踊る左衛門です。

鶴崎では、左衛門を「三つ拍子」とも呼んでいました。その始まりについては、大友宗麟と立花道雪にまつわる有名な物語が伝えられています。

左衛門は1560年ごろに始まったと伝えられている

左衛門の起源は、永禄3年にあたる1560年ごろまでさかのぼると伝えられています。

当時の豊後国を治めていたのは、大友義鎮です。大友義鎮は後に出家し、一般に知られる大友宗麟と名乗りました。

地域に伝わる物語では、大友義鎮が一時期遊興にふけり、政治を省みなくなったとされています。

その様子を心配した重臣の戸次鑑連は、主君に忠告しようとしました。しかし、簡単には面会できず、直接話す機会を作れませんでした。

そこで戸次鑑連は、京都から踊り子を招き、毎日のように踊りを披露させたと伝えられています。

堅物として知られていた戸次鑑連が踊りの催しを開いていると聞いた大友義鎮は、不思議に思い、自ら見物に訪れました。

戸次鑑連は、そこで「三つ拍子」と呼ばれる踊りを披露させます。

大友義鎮の機嫌がよくなったところで、戸次鑑連は涙ながらに政治へ戻るよう忠告しました。大友義鎮はその言葉を受け入れたとされ、このとき披露された三つ拍子が、後の左衛門になったといわれています。

この物語は、「大友記」や「西国盛衰記」などをもとに伝えられているものです。

細かな内容には複数の説があり、歴史上の出来事としてすべてが確認されているわけではありませんが、鶴崎踊の由来を語るうえで欠かせない伝承となっています。

戸次鑑連は後の立花道雪

鶴崎踊の由来に登場する戸次鑑連は、後に立花道雪と呼ばれる戦国武将です。

大友氏に仕え、数多くの戦いで活躍した重臣として知られています。

戸次鑑連は武勇に優れていただけではなく、主君に対して厳しく意見できる人物だったと伝えられています。

鶴崎踊の由来では、遊興にふける大友義鎮を立ち直らせるため、あえて踊りの催しを開いた人物として描かれています。

直接忠告するのではなく、大友義鎮が自ら訪れたくなる状況を作り、楽しい雰囲気の中で話を聞かせようとした点に、戸次鑑連の知恵が表れています。

この伝承では、踊りは単なる娯楽として使われたのではありません。

主君と家臣が向き合い、政治について話し合うためのきっかけとして利用されたことになります。

左衛門の別名である三つ拍子は、現在も鶴崎踊の歴史を伝える重要な言葉です。

軽快なリズムを持つ左衛門を見るときに、大友宗麟と立花道雪の物語を知っていれば、踊りの中に戦国時代から続く歴史的背景を感じられるでしょう。

大友義鎮と大友宗麟は同じ人物

大友義鎮と大友宗麟は、別の人物ではありません。

大友義鎮が出家した後に名乗った名前が宗麟です。そのため、鶴崎踊の由来を紹介する資料では、大友義鎮と書かれている場合と、大友宗麟と書かれている場合があります。

名前内容
大友義鎮豊後国を治めていた時代の名前
大友宗麟出家後に広く知られるようになった名前
戸次鑑連大友氏に仕えた重臣
立花道雪戸次鑑連が後に名乗った名前

鶴崎踊の歴史を調べる際は、名前が異なっていても、それぞれ同じ人物を指していることを知っておくと理解しやすくなります。

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猿丸太夫は江戸時代に伝わったとされる踊り

現在の本場鶴崎踊大会では、しっとりと優雅な猿丸太夫が中心に踊られています。

しかし、猿丸太夫は左衛門よりも後の時代に鶴崎へ伝わったと考えられています。

その起源は、江戸時代に流行した伊勢踊との関係が深いとされています。

伊勢参りから持ち帰った踊りが定着したとされる

猿丸太夫は、江戸時代中期に鶴崎の町人が伊勢参りへ出かけ、現地で流行していた伊勢踊を覚えて帰ったことが始まりと考えられています。

江戸時代には、伊勢神宮を目指して多くの庶民が旅をする「おかげ参り」が広まりました。

鶴崎から伊勢までの移動は簡単ではありませんでしたが、旅先で見聞きした文化や芸能は、帰郷した人々によって地域へ持ち帰られました。

当時の伊勢地方では、伊勢踊と呼ばれる踊りが流行していました。

鶴崎の町人が振り付けや曲を覚えて地元で披露し、それが長い年月の中で変化しながら定着したものが、現在の猿丸太夫へ発展したと考えられています。

猿丸太夫は、緩やかなテンポと流れるような手の動きが特徴です。

横笛や胡弓、三味線、尺八、太鼓などの伴奏に合わせ、扇子を使いながら優雅に踊ります。

現在では鶴崎踊を代表する踊りとして知られ、本場鶴崎踊大会でも主に猿丸太夫が披露されています。

左衛門が戦国時代の伝承につながる踊りであるのに対し、猿丸太夫は江戸時代の旅や庶民文化を通して鶴崎へ伝わった踊りです。

2種類の踊りを比べると、異なる時代の文化が鶴崎で一つの伝統芸能として受け継がれていることがわかります。

猿丸太夫という名前の由来には複数の説がある

「猿丸太夫」という特徴的な名前が、どこから生まれたのかについては、はっきりと確定していません。

踊りの歌詞や口説きに関係しているという見方や、伊勢踊の系統から伝わった名称ではないかという説があります。

猿丸太夫という名前を聞くと、三十六歌仙の一人として知られる歌人の猿丸大夫を思い浮かべる人もいるでしょう。

しかし、鶴崎踊の猿丸太夫と、歌人の猿丸大夫が直接結びついているかどうかは明らかになっていません。

鶴崎踊に関する資料では、「猿丸太夫」と「猿丸大夫」の両方の表記が使われることがあります。

鶴崎おどり保存会などでは「猿丸太夫」と表記されることが多いため、本場鶴崎踊大会について紹介する際は、この表記を使用するとわかりやすいでしょう。

名前の由来を一つの説だけで断定するよりも、伊勢踊の流れを受けた踊りが鶴崎に定着し、長い年月の中で地域独自の形へ発展したと考えるのが適切です。

猿丸太夫の優雅な振り付けや囃子は、自然に残ったものではありません。

地域の踊り手や指導者、保存会が練習と継承を続けてきたことで、現在まで受け継がれています。

猿丸太夫と左衛門の違い

猿丸太夫と左衛門は、どちらも鶴崎踊を構成する大切な踊りですが、テンポや動き、歴史的背景が異なります。

比較項目猿丸太夫左衛門
主な特徴しっとりと優雅軽快でテンポが速い
動き流れるような手の動き活発でリズミカルな動き
使用する道具扇子を使って踊る手踊りを中心に披露
起源とされる時代江戸時代中期戦国時代の1560年ごろ
由来伊勢参りから持ち帰った伊勢踊戸次鑑連が大友義鎮を諫めるために披露した三つ拍子
現在の大会中心的に踊られる猿丸太夫とともに継承されている

猿丸太夫は、華やかな衣装や扇子の動きが美しく、本場鶴崎踊大会の象徴的な踊りとして知られています。

一方の左衛門は、軽快なリズムと活発な動きが魅力です。

同じ鶴崎踊でも、音楽の速さや踊り手の動き、会場に生まれる雰囲気は大きく異なります。

両方を見比べることで、鶴崎踊の歴史の広がりと奥深さを感じられるでしょう。

鶴崎おどり保存会が伝統を守っている

鶴崎踊が現代まで続いている背景には、地域住民や鶴崎おどり保存会による長年の活動があります。

保存会では、大会で踊りを披露するだけではなく、振り付けや囃子、口説き、衣装などを次の世代へ伝える取り組みを続けています。

鶴崎おどり保存会は1924年に発足した

鶴崎おどり保存会は、1924年8月22日に発足しました。

大正13年にあたるこの年、鶴崎町役場と地域住民が協力し、鶴崎踊を発展させながら守っていくことを目的に組織されました。

保存会が作られる前から、鶴崎踊は地域で親しまれていました。

しかし、社会や生活様式が変化すれば、踊り手や演奏者が減少し、振り付けや音楽が失われる可能性があります。

踊りの形を正確に残し、継続的に披露するためには、中心となって活動する団体が必要でした。

鶴崎おどり保存会は、主に次のような活動に関わっています。

  • 猿丸太夫と左衛門の踊りの指導
  • 囃子や口説きの継承
  • 地域行事やイベントへの出演
  • 本場鶴崎踊大会の開催や運営
  • 子どもや初心者が踊りに触れる機会づくり
  • 衣装や踊り方などの記録と保存

鶴崎踊は、一部の専門家だけが舞台で披露する芸能ではありません。

町内会や企業、学校、各種団体など、幅広い人々が参加できる地域の踊りです。

多くの住民が実際に踊り、観客と一緒に大会を作り上げることが、長く続いてきた理由の一つといえるでしょう。

保存会の発足から100年以上が経過した現在も、猿丸太夫と左衛門の両方が受け継がれています。

時代に合わせて大会の運営方法を変えながら、基本となる踊りや音楽を守り続けている点に、保存会の大きな役割があります。

市・県の文化財を経て国の選択を受けた

鶴崎踊は、1979年に大分市の無形民俗文化財となり、1981年には大分県の無形民俗文化財となりました。

その後、国からも地域的な特色を持つ重要な民俗芸能として評価され、記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択されています。

一般には「国選択無形民俗文化財」と紹介されます。

「国指定無形民俗文化財」と表現されることもありますが、「指定」と「選択」は文化財制度上の扱いが異なります。そのため、鶴崎踊について紹介する場合は、国選択無形民俗文化財と記載するのが適切です。

国による選択は、地域で受け継がれてきた民俗芸能のうち、変化や消失に備えて記録を残す必要があるものを対象としています。

鶴崎踊では、次のような特徴が評価されています。

  • 左衛門と猿丸太夫という2種類の踊り
  • 踊りに合わせて歌われる口説き
  • 横笛や胡弓、太鼓などによる囃子
  • 団体ごとに工夫された華やかな衣装
  • 地域住民が参加する仮装踊りの文化
  • 長年にわたって地域で継承されてきた歴史

文化財に選ばれたからといって、保存会だけが踊るものになるわけではありません。

地域の人々が参加し、毎年実際に踊り続けることが文化の継承につながります。

本場鶴崎踊大会は、保存された踊りを展示するだけの場所ではなく、現在も地域の中で生き続けている文化を体験できる行事なのです。

鶴崎踊の歴史を知ると大会をより楽しめる

本場鶴崎踊大会では、華やかな衣装や大きな踊りの輪に目を奪われます。

しかし、歴史を知ってから観覧すると、踊りの動きや音楽から、さらに多くの魅力を感じられます。

左衛門と猿丸太夫では歴史的背景が異なる

左衛門と猿丸太夫は、同じ鶴崎踊として披露されていますが、それぞれ異なる歴史的背景を持っています。

左衛門は、1560年ごろに戸次鑑連が大友義鎮を諫めるために踊らせた三つ拍子が起源と伝えられています。

軽快なテンポが特徴で、鶴崎踊の中では古い歴史を持つ踊りです。

猿丸太夫は、江戸時代中期に伊勢参りへ出かけた町人が、伊勢踊を覚えて持ち帰ったものが定着したと考えられています。

緩やかなテンポと優雅な振り付けが特徴で、現在の大会では中心的に踊られています。

左衛門を見るときは、戦国時代の大友氏や立花道雪にまつわる物語を思い浮かべてみましょう。

猿丸太夫を見るときは、江戸時代の人々が遠く離れた伊勢から踊りを持ち帰り、鶴崎独自の文化へ育てていった歴史に注目できます。

異なる時代に生まれた2種類の踊りが、一つの地域で受け継がれていることは、鶴崎踊の大きな特徴です。

音楽の速さや振り付けだけでなく、それぞれが伝えている歴史を比べることで、本場鶴崎踊大会をより深く楽しめます。

地域の人が踊り続けることで文化が残っている

鶴崎踊が約460年以上にわたって受け継がれてきたのは、古い記録が残されているからだけではありません。

地域の人々が実際に踊り、演奏し、次の世代へ教えてきたことが大きな理由です。

民俗芸能は、映像や文章を保存するだけでは十分に継承できません。

踊るときの姿勢、指先の動き、足の運び、楽器の間合い、口説きの節回しなど、実際に人から人へ伝えなければ残りにくい要素が数多くあります。

本場鶴崎踊大会には、町内会や企業、学校、地域団体などが参加します。

参加者が練習を重ねて踊りを披露し、多くの観客が見守ることで、鶴崎踊は毎年新しい世代へ伝えられています。

大会を観覧するときは、衣装の美しさや踊りの迫力だけでなく、地域の人々が長年守ってきた背景にも注目してみましょう。

一人ひとりの踊り手が輪を作り、横笛や胡弓、太鼓の音に合わせて舞う光景には、鶴崎の歴史と地域のつながりが表れています。

鶴崎踊の歴史と由来に関するよくある質問

鶴崎踊はいつ始まったのですか?

鶴崎踊の起源は、1560年ごろまでさかのぼると伝えられています。

ただし、現在の踊りや大会形式が当時からそのまま続いているわけではありません。時代に合わせて形を変えながら受け継がれてきました。

大友宗麟と鶴崎踊にはどのような関係がありますか?

鶴崎踊の左衛門は、大友義鎮、後の大友宗麟を重臣の戸次鑑連が諫めるために披露させた三つ拍子が起源と伝えられています。

史実としてすべてが確認されているわけではありませんが、地域で大切に語り継がれている由来です。

立花道雪は鶴崎踊を作った人物ですか?

立花道雪、当時の名では戸次鑑連が、京都から踊り子を招いて三つ拍子を披露させたという伝承があります。

その踊りが左衛門の起源とされていますが、立花道雪本人が振り付けを作ったという意味ではありません。

猿丸太夫と左衛門はどちらが古いですか?

一般的には、戦国時代の1560年ごろに始まったとされる左衛門の方が古いと考えられています。

猿丸太夫は、江戸時代中期に伊勢踊の影響を受けて鶴崎へ伝わったとされています。

鶴崎踊は国指定の文化財ですか?

鶴崎踊は、一般に国選択無形民俗文化財と紹介されています。

「国指定」と「国選択」は制度上の扱いが異なるため、記事や案内では「国選択無形民俗文化財」と記載するのが適切です。

まとめ

鶴崎踊は、大分市鶴崎地区で約460年以上にわたって受け継がれてきた伝統的な盆踊りです。

軽快な左衛門は、戸次鑑連が大友義鎮を諫めるために披露させた三つ拍子が起源と伝えられています。戸次鑑連は後の立花道雪、大友義鎮は後の大友宗麟です。

一方、優雅な猿丸太夫は、江戸時代に伊勢参りへ出かけた町人が伊勢踊を持ち帰り、鶴崎独自の形へ発展させたものと考えられています。

異なる時代と由来を持つ2種類の踊りが、一つの地域文化として現在まで受け継がれている点が、鶴崎踊の大きな魅力です。

鶴崎おどり保存会や地域住民の活動によって、振り付け、囃子、口説き、衣装などが次の世代へ伝えられています。

本場鶴崎踊大会を訪れる際は、華やかな衣装や踊りの輪だけでなく、大友宗麟や立花道雪にまつわる伝承、伊勢踊とのつながりにも注目してみましょう。

歴史を知ることで、鶴崎踊が現在も地域の中で生き続けている伝統芸能であることを、より深く感じられます。

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