どうする家康の浅井長政の最期!なぜ織田信長を裏切った?

どうする家康で浅井長政(大貫勇輔)の最後がどんな生涯だったのか?なぜ、織田信長を裏切ったのかについて気になったので調べてみました。イケメンの方が担当することが多い浅井長政の役をしている大貫勇輔さんについても、すこしご紹介していますので参考にしてみてください。

目次

どうする家康の浅井長政の生涯

浅井長政(大貫勇輔)の父親と母親について

浅井長政(大貫勇輔)の父親は、久政という名です。母親は、通称小野殿と呼ばれています。浅井家は、久政の父(長政の祖父)亮政の時代に、北近江を収める大名となりました。つまり、長政は、浅井家の三代目当主という訳です。ちなみに、久政は、存命中に嫡男長政に家督を譲っていて、若き当主である長政に何かと意見することが多かったようです。小野殿は、北近江の豪族井口氏の出です。浅井氏の居城である小谷城が織田信長によって攻め滅ぼされた後に生け捕りにされ、両手の指を少しずつ切断されるというむごい仕打ちの後に、惨殺されました。

浅井長政(大貫勇輔)とお市の方、徳川家康との年齢差

長政(大貫勇輔)とお市の方(北川景子)は、長政の方が2歳年上という夫婦です。ただ、二人が結婚した具体的年月日に関しては、諸説あります。ちなみに、徳川家康(松本潤)は、長政より2歳年上で、従ってお市の方より4歳年上です。

浅井長政(大貫勇輔)の性格

とても優しくて、のんびりとした人柄だったと思います。それでいて、領民たちにも寄り添う良き統治者でした。また、織田信長(岡田准一)と盟約を結んだのは、対立していた南近江の大名である六角氏を、当時勢いのあった信長の支援を得て打ち果たすためでもありました。その点から、父や祖父の代からの宿敵を倒すために尽力する責任感の強さも持ち合わせた人だったと推測されます。
一方で、別の面もあります。一度決めた事を最後までやり遂げる性格の武将だったとも考えます。姉川の戦いに敗れた時点で、織田家に臣下の礼を取り、降伏すれば命だけは助けられ、織田配下の小さな大名として生き残る道は残されていたはずです。なぜなら織田家との姻戚関係がある大名であると共に、信長自身が服従した相手を、臣下に取り込んだ前例が幾度もあるためです。しかしながら朝倉家とのつながりを重視し、たとえ形勢が不利になっても最後まで戦い抜いてこの世を去った戦国武将の代表例だと感じます。

浅井長政(大貫勇輔)に関係した有名なエピソード

浅井長政(大貫勇輔)は、実は少しぽっちゃりした体型だったと言います。北近江は、琵琶湖で採れる魚介類や、周辺の野山で採れる木の実やキノコなど、食物が豊かな場所で、古代より人が多く住んでいた地域でした。そして、そんな北近江を収める浅井家の若き当主となった長政は、領民が水争いなどで揉めた時も、両者の言い分を自らよく聞いて、裁断を下していたそうです。そのため、領民たちからは大変に好かれ、お礼に湖や野山で採れる食料をもらい、それを食していたためにぽっちゃり体型になったのではないかと考えられています。

浅井長政(大貫勇輔)が織田信長を裏切った理由

浅井長政(大貫勇輔)が義理の兄である織田信長(岡田准一)を裏切った理由は、信長が、浅井家と古くから同盟関係にある越前の朝倉家を攻撃したからです。織田家出身のお市の方(北川景子)と婚姻関係を結び、織田家とはあくまで同盟関係という、いわば対等な関係を考えていた浅井長政(大貫勇輔)としては、自分の領土的野心を拡大化させていこうとする信長の方針に、このままでは同盟者としてではなく浅井家は織田家の家臣になってしまうかもしれないという危機感が起きたため、やがて信長と敵対関係になっていったと考えられます。浅井家は、信長に朝倉家を攻撃しないことを盟約させたのですが、それを信長が一方的に破棄したために、裏切ることになったのです。つまり、実は、信長の方が、先に盟約を破ったという点で、長政を裏切ったということです。また、当時、信長の周囲は敵だらけでした。石山本願寺とも揉めていたし、武田信玄も存命していました。なので、長政としては、ここで浅井家の味方をしても、勝算は十分にあったのです。実際、姉川の戦いでは、浅井軍は信長軍の本陣まで攻め入り、信長まであと少しというところまで迫ったと言います。

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どうする家康の浅井長政(大貫勇輔)の最期

浅井家の本拠である小谷城は、戦国時代屈指の攻めにくい山城でした。尾根ごとに本丸、二の丸、京極丸などが建ち、防御も鉄壁で、なかなか攻め落とすには難しい城だったのです。しかし、信長(岡田准一)は大軍勢で、小谷城を包囲し、兵糧の補給路を断たれ、もはやこれまでと思った長政は、妻のお市の方(北川景子)と三人の娘たちの助命を密かに信長に懇願します。それを受け入れた信長の配下の羽柴秀吉(ムロツヨシ)らが彼女たちを城の外に連れ出します。彼女たちが無事、城を出たことを確認した信長軍は、小谷城に総攻撃を開始し、長政は、攻めかかる信長軍を城の中で迎え撃ち、勇猛果敢に戦った後1573年(天正元年)9月1日に、浅井長政(大貫勇輔)は自害しました。享年は、29歳でした。

「どうする家康」を演じているキャスト一覧はこちら!
登場人物の最期について書いています。

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浅井長政(大貫勇輔)の3人の娘(姫)はどうなった?

浅井長政(大貫勇輔)亡き後、お市の方(北川景子)は、3人の娘と共に、夫の敵である兄・信長(岡田准一)とは距離を取って別の城で暮らします。本能寺の変が起こり、信長が亡くなった後に、お市の方は、織田家の重臣である柴田勝家(吉原光夫)と再婚します。幸せな生活もつかの間のことで、賤ヶ岳の戦いで勝家が羽柴秀吉(ムロツヨシ)に敗れたため、敗走して来た勝家と共に、お市の方は、勝家の居城である北ノ庄城に残り、3人の娘を城の外に逃がした後に、命を絶ちます。母亡き後、3人の娘たちは、秀吉の養女として育てられることになるのですが、実質的には政略結婚の駒にされました。特に三女の江は、秀吉に振り回されて3回も結婚する羽目になります。一方、長女の茶々は、秀吉の側室となり、後に淀殿と呼ばれ、秀吉の息子・秀頼を産みます。ちなみに次女の初は、京極高次に嫁ぎます。高次の母は、京極マリアといい、彼女たちの父親である長政の姉にあたる人物で、つまりこの結婚は従兄弟同士の結婚ということになります。高次の姉は、秀吉の側室の一人です。

浅井長政を演じている大貫勇輔さんのプロフィール

大貫勇輔さんは、ホリプロ所属の俳優さんです。身長180センチで、細面のイケメン俳優で、史実の浅井長政とは大分違う人のようです。(実際、大河ドラマ以外でも浅井長政を演じる俳優さんは、イケメンが多いので、そこのところはどうする家康に限ったことではありませんが。)大貫さんの家系は、優秀なアスリートの方が多く、大貫さん自身、その運動神経の良さをダンスに活かして、俳優業の傍らダンサーとしても活躍しています。元宝塚歌劇団専科男役の沙央くらまさんと2021年に入籍されており、お二人に間にはすでに1名のお子さんがいらっしゃるようです。ミュージカルの「ロミオ&ジュリエット」や、「キャバレー」などに出演した経歴もあります。

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