どうする家康で織田信長の最期!キャスト岡田准一の演技力は?

どうする家康で織田信長を演じている岡田准一さんの演技について、また、織田信長の最後について「どうする家康」では、どのように描かれるのか、気になったので調べてみました。織田信長の最後については、史実である程度わかっていますが、もう一度、確認の意味もこめて、まとめていますので参考にしてみてください。

目次

織田信長の父親と母親

織田信長(岡田准一)の両親は、織田信秀(藤岡弘)と土田御前です。織田信秀(藤岡弘)は、清洲三奉行の1人の織田信定の長男であり、朝鮮から渡来した素戔嗚雨を主神とする津島神社の門前町を繁栄させて織田家の経済基盤を今川家に匹敵する様に整えた人物です。土田御前は、桶狭間の戦いに臨む織田信長(岡田准一)に情報をもたらしていた側室生駒吉乃の息子・織田信雄に関する資料により、桶狭間の戦いで援軍を出した六角氏に縁のある佐々木六角氏の後裔とされる土田政久の娘とする説が有力となっています。信秀の頃の織田家は、尾張の国の一領主に過ぎませんでした。信長の母親は、通称土田御前と呼ばれる女性です。彼女は、信長よりも弟の信行(諱は信勝)を可愛がり、こちらを織田家の当主にしたいと考えていたようです。

織田信長とお市の方、徳川家康との年齢差

織田信長(岡田准一)の生まれた年は、1534年です。お市の方(北川景子)は、同腹の妹で、1547年の生まれであるというのが通説で、つまり、お市の方は、織田信長よりも13歳年下ということになります。一方の徳川家康(松本潤)は、1543年の生まれですので、信長より9歳年下となります。

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織田信長に関係した有名なエピソード

織田信成さんとの関係は?

織田信長(岡田准一)には、様々なエピソードが伝えられています。彼は生まれた時から、歯が既に生えていて、乳母の乳首をその歯で噛みちぎったという逸話は、有名です。赤ん坊の頃から信長らしい荒々しさがあっったのですね。そんな信長ですが、彼には吉乃という最愛の側室がいました。吉乃は、嫡男の信忠、次男の信雄、長女の徳姫の三人の子を産みます。しかし、徳姫を産んだ時の産後の肥立ちが悪く、亡くなってしまうのです。その時、信長はその死を嘆き悲しみ、涙を流したと伝えられています。吉乃は、彼にとって最愛の女性だったのかもしれません。ちなみに、吉乃が産んだ次男の信雄の子孫が、フィギアスケーターでおなじみの織田信成さんです。

桶狭間の戦い

織田信長(岡田准一)と言えば、桶狭間の戦いや長篠の戦いが有名ですが、現在では特筆すべき戦いでなかったとされています。桶狭間の戦いは、実母縁の六角氏への援軍の手配だけでなく吉乃の生駒家や織田家が情報収集など事前に充分な戦の準備をしていたとされ、奇襲ではなく正攻法で今川義元を討ち取ったと変わっています。長篠の戦いは、古戦場跡で火縄銃の弾丸が数えるほどしか発見されていないことから、3000丁ではなく1000丁以下だったと考えられています。織田信長(岡田准一)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)に本能寺の変で落命した悲運の武将とされていますが、お市の方(北川景子)の小豆の小袋や武田信玄の早逝など運が良い武将といえます。

佐々成政の謀反の噂では?

織田信長(岡田准一)は、1550年から本能寺の変で落命するまで忠義を尽くした佐々成政の謀反の噂を耳にしていながらも、佐々成政が城主の比良城付近のあまが池に大蛇征伐に出かけました。佐々成政は、謀反の噂を聞いた織田信長(岡田准一)が大蛇征伐と称して裁きに来たと考え、織田信長(岡田准一)が比良城に来た際に比良城家老の井口太郎左衛門が織田信長(岡田准一)を指し川に引き摺り込む策を準備していました。しかし、織田信長(岡田准一)は、比良城に立ち寄ることなく清洲城に戻り、命拾いをしました。

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織田信長の子供

信長の嫡男・信忠は、本能寺の変で、信長がいた本能寺とは別の場所を宿所としていましたが、同時に明智勢に攻められ、討ち死にします。残った信雄と三男信孝は、後継者争いで、対立し、信孝が柴田勝家を重用したため、秀吉とも対立することになります。ですが、柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで敗北し、信孝も秀吉に攻められることになり、自害に追い込まれます。一方の信雄は、秀吉勢として賤ヶ岳の戦いに参戦し、その後も強かに戦国の世を生き抜き、その血脈は、現代まで続いています。

織田信長(岡田准一)は、嫡男の織田信忠と出生順が定かではない織田信雄織田信孝の3兄弟が有名ですが、11男11女の子供がいたとも言われています。織田信忠は、本能寺の変が起こる6年前の天正4年(1576年)に家督を譲り受けると共に岐阜城城主となりましたが、織田信長(岡田准一)共に上洛して本能寺の変の際に二条新御所で自刃しています。織田信雄は、永禄12年(1569年)の大河内城の戦いの勝利を機に12歳の時に北畠具房の養子になり、18歳で北畠家の家督を継ぎます。織田信長(岡田准一)死後は、徳川家康から豊臣秀吉そして大阪冬の陣直前に徳川家康に鞍替えする事で大和国宇陀郡などを与えられ、1630年4月30日に京都北野邸で享年73歳の生涯を閉じています。

織田信孝は、桓武平氏関氏流の神戸氏の養子として神戸信孝と名乗っていたにもかかわらず本能寺の変を機に織田信孝に名を戻し、柴田勝家を頼りに秀吉と敵対するものの岐阜城を開城して降伏しました。その後、尾張国知多郡野間の内海大御堂寺に蟄居させられ、1583年兄・信雄に真言宗豊山派安養院で切腹を命じられ、腹を十字に切り裂き腹わたを床の間に投げつけて果てました。

織田信長の結婚相手と相手役女優は誰?

二階堂ふみ

織田信長の正室は、美濃国の斉藤道三の娘である帰蝶(信長に嫁いでから、信長に美濃から来たから今後は濃と呼ぶと言われたから濃姫と呼ばれるようになったとか)です。織田勢に関しては、あまり多くのキャストがまだ情報公開されておらず、しかし、既に長女の徳姫(ドラマでは五徳)が情報公開されていることから、濃姫は出演したとしても、あまり有名な女優さんが演じるとは思えません。ただ、この人がいいと言うなら、全くの希望的観測で、二階堂ふみさんなんて良いかなと思います。

松下奈緒

織田信長(岡田准一)は、一般に知られている斎藤道三の娘である鷺山殿や生駒宗家の生駒吉乃だけでなく、織田信孝の生母の坂氏や織田信高の生母の於鍋の方、養観院、慈徳院、土方氏、あここの方、原田直子、御ツマキ殿がいます。鷺山殿は、濃姫や帰蝶などと称される正室であり、気が強い美女のイメージがあります。しかし、斎藤道三の短刀や斎藤家の内部分裂を狙った織田信長(岡田准一)の策など信憑性の薄いエピソードがあるものの、信長公記など当時の記録に一切記述がないので控えめで大人しい人物ではなかったのかと思います。

鷺山殿は、お市の方(北川景子)より12歳年上でお市の方(北川景子)の年齢を基準にすると、菅野美穂や柴咲コウが良い様に思いますが、織田信長(岡田准一)に合わせると新垣結衣ではないでしょうか。生駒家は、斎藤道三と同様に油を取り扱っていただけでなく染料用の灰や馬借をしていた商家であり、類ではないかとされる吉乃は快活な女性だったと考えられます。生駒吉乃(類)は、一般的に1528年生まれとされているのでお市の方(北川景子)よりも19歳年上と考えられ、お市の方(北川景子)を基準とすると檀れいが良いのですが、織田信長(岡田准一)に合わせると松下奈緒ではないでしょうか。

織田信長の最期

織田信長は、1582年、京の本能寺で、臣下の明智光秀の謀反により、亡くなります。享年47歳(数えで49歳)です。何故、明智光秀が謀反を起こしたのか、その理由には諸説ありますが、最近の研究では、信長による四国攻めを防ぐためだったという説が有力になっています。本能寺で茶会を開いた後、信長は、嫡男の信忠と共に四国の長宗我部氏征伐に向かう予定だったからです。しかし、長宗我部氏には、光秀の家臣である斉藤利三の縁者が嫁いでいて、光秀としては、それを止めたかったのでしょう。ちなみに、光秀は、本能寺の焼け跡で必死になって信長の首を探しますが、ついに見つかることはありませんでした。敵に首を晒すのは、武士の恥。信長は、そのため自害する時に、家臣に自分の首を持って、密かに本能寺から逃げ延びるよう命じたと言います。でも、それくらいのことを頼むなら、信長自身だって逃げることが出来たのではないでしょうかと疑問に思う方もいるでしょう。しかし、その辺りが信長らしい潔さ。逃走中に敵に見つかり、打たれたのなら、それはそれで恥となります。そのため、本能寺で自害することを選んだのでしょう。激しいけれど、彼らしい最期だったと思います。

本能寺は、現代人が考えるような寺院ではなく、15,000坪の広大な敷地の周りに3mの塀と堀をめぐらせた軍事要塞であったとされ、織田信長(岡田准一)は上洛の際の上宿としていました。1582年は、柴田勝家(吉原光夫)の北陸方面軍と織田信孝の四国方面軍だけでなく、滝川一益の関東管領軍と豊臣秀吉(ムロツヨシ)の中国方面軍が織田信長(岡田准一)の元を離れていた状態です。明智光秀(酒向芳)の畿内方面軍を豊臣秀吉(ムロツヨシ)の救援に向かわせたので夜間に行軍していても不思議ではなく、本能寺の変が成功したと言えます。織田信長(岡田准一)は、長弓と長刀鉄砲で明智軍を倒したとされ、鉄砲で手傷を負わされて納戸の中で自害されたとされています。しかし、軍事要塞化された寺院には抜け穴がないはずがなく、織田信長(岡田准一)の庇護した村井貞勝が建造した南蛮寺には抜け穴伝説があるので、織田信長(岡田准一)が生きて逃げていないまでも亡骸だけは運び出されたとも考えられます。

織田信長の性格

織田信長は、気性が激しいことで有名です。重臣の明智光秀に暴行し、それが本能寺の変の動機になったのではと言われるくらいでした。しかし、小姓の森蘭丸に「お前の欲しいものはなんだ?その手に書いてみせよ。わしもおまえの望んでいるものを、自分の手に書くから、それを同時に見せ合おう」と言い、二人が互いの手を見せ合った時には同じ「近江坂本」(蘭丸の父の所領)とあったのです。このエピソードから、信長の意外な優しさも垣間見えます。また、側室の吉乃の死に目に際して、号泣したエピソードは、彼が情熱的なハートの持ち主であったことも窺えます。

織田信長(岡田准一)は、狙撃犯の杉谷善住坊への竹製の鋸挽きの刑や比叡山の焼き討ちなど非常に残忍なイメージがあり、宣教師ルイス・フロイスは諸宗の敵なる悪魔の王信長」とイエズス会に報告しています。織田信長(岡田准一)は、裏切った浅井朝倉軍を討伐する為に焼き討ちをかけただけであり、再三警告したのに延暦寺が無視した為に実行された作戦です。織田信長は、怒りに任せて残忍な事をする人間ではなく手順を踏んで非難や損害を最小限にする合理的な性格であり、古い慣習にとらわれることなく楽市楽座や種子島の導入など革新的で好奇心旺盛な人物だったと言えます。柴田勝家(吉原光夫)など弟に与していた武将を重用する器の大きさを持っている人物です。しかし、ルイス・フロイスの記述にある声が高いことから、せっかちで人の話を聞かないところがあり、明るい時と暗い時が両極端なところがあった様にも思える。

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登場人物の最期について書いています。

織田信長を演じている岡田准一さんの演技

なかなかにカッコイイ

織田信長役が岡田准一さんになったと聞いて、ついに信長役が来たか!と思いました。岡田さんは、大河ドラマ「軍師官兵衛」で主役の黒田官兵衛を初め、様々な日本史上の偉人の役を演じられているからです。ご自身も歴史にとても興味がおありのようで、ジャニーズに入っていなかったら、社会科の教師になろうと思っていたと言うくらいです。そんな岡田さんは、実は、芸能界屈指の乗馬の達人だそうです。戦国武将は、馬上で手綱を掴まずに武器を両手で握って戦わなくてはなりません。しかし、手綱を握らずに馬に乗るというのは、至難の技。それを岡田さんは、見事にこなしてしまうというのですから、驚きです。そんな岡田さんの信長の演技は、まさしく王道の信長のイメージそのものですね。パワハラを地で行く威圧感が半端ないです。また、今までの岡田さんにはあまり見られなかったワイルドさもあって、なかなかにカッコイイ信長だと思っています。

はまり役

織田信長(岡田准一)は、戦国時代にしては比較的背が高く身長が5尺5寸ないし6寸(165cmから168cm)あったとされることから身長168cmの岡田准一ははまり役であり、ゲームのラスボスや魔王を連想させる存在感と吐き捨てるセリフの乱暴さが第六天魔王らしくて良かった。複数の岡田准一が演じる織田信長は、ただただ豪胆で高圧的に演じられているだけであり、複数の肖像画に見られる神経質で線が細い危うさが全くなく従来通りの織田信長で少し残念です。

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