どうする家康で武田勝頼の最後が、どのように描かれるのか気になったので調べてみました。また武田勝頼を演じるキャストの眞栄田郷敦さんについても、どのような演技をしてもらいたいのか思うところを書いています。武田勝頼の悲劇的な結末を眞栄田郷敦さんが、どのように演じるのかは、かなり気になりますね。おそらく、かなり衝撃的な演出になると思います。放送が楽しみですね。
武田勝頼の父親と母親について
母親は15歳?
武田勝頼(眞栄田郷敦)の両親は、武田信玄と諏訪御料人(すわごりょうにん)です。武田信玄は、甲斐源氏嫡流の甲斐武田第19代当主とされる甲斐の虎であり、川中島の戦いで知られる武将です。諏訪御料人は、諏訪氏第19代当主諏訪頼重と下総国香取郡の房総平氏所縁の小見氏の太方様の娘です。しかし、14歳の時に武田信玄に嫁ぎ、天文15年(1546年)15歳で武田勝頼(眞栄田郷敦)を産んだとされています。
武田勝頼と武田信玄、家康との年齢差
武田勝頼(眞栄田郷敦)は、天文15年(1546年)に誕生しています。武田信玄は、大永元年11月3日(1521年12月1日)誕生しているので、年齢差は25歳年上です。織田信長(岡田准一)は、天文3年5月12日(1534年6月23日)に誕生しているので、年齢差は13歳年下です。
勝頼は信玄公が25歳の頃に生まれています。そして、徳川家康は勝頼より三歳年上、まさに家康は父親世代の信玄と戦うことになったのです。キャラクターとしては阿部寛さんが演じる信玄公と、その息子の勝頼が眞栄田郷敦さんということで、顔が濃いめのお二人が揃って、ナイスなキャスティングだと思われます。
武田勝頼に関係した有名なエピソード
長篠・設楽ヶ原の戦い
武田勝頼(眞栄田郷敦)と言えば、織田信長(岡田准一)の鉄砲の3段打ちに負けた天正3年5月21日(1575年6月29日に起こった、織田信長(岡田准一)徳川家康(松本潤)連合軍と戦った長篠・設楽ヶ原の戦いです。大敗した事で田峰城や作手城など徳川家康(岡田准一)に攻め込まれ劣勢になりましたが、武田信玄の葬儀が行われた恵林寺から安芸の毛利輝元や北条氏政の妹を正室に迎えるなど可能な限り織田信長(岡田准一)勢力に対する対策を講じた事です。武田勝頼(眞栄田郷敦)は、紀伊国に亡命していた将軍・足利義昭が呼びかけた甲相越三和に同意する事で天敵である上杉家との争いに蹴りをつけ、甲相越三和で北条との和議に反対する上杉家を他所に翌年(1577年)には北条氏政の妹を正室に迎えて、織田信長(岡田准一)勢力への反攻の準備を整えました。
映画「戦国自衛隊」では?
1979年公開の映画「戦国自衛隊」では武田勝頼を真田広之さんが演じていました。タイムスリップした陸上自衛隊のヘリと戦うという奇想天外な展開ではありましたが、アクション俳優としてデビューしたての真田広之さんが演じることで、ファンの間では伝説的なシーンになっています。また、大河ドラマ「真田丸」では平岳大さんが演じ、織田家の滝川一益らに攻め込まれて自害するという悲劇が描かれました。偉大な父に及ばず、滅びゆく武田家の最期の輝きを鮮烈に演じていたことも記憶に残っています。
武田勝頼の子供について
8人の子供?
武田勝頼(眞栄田郷敦)には、3人の夫人の間に8人の子供がいたとされています。嫡子・武田信勝は、織田信長(岡田准一)の姪である龍勝院の息子として高遠城で生まれ、織田信長(岡田准一)・徳川家康(松本潤)の甲州征伐で滝川一益に捕縛され、自刃後に一条大路で晒し首になりました。次男・周哲大童子は、北条氏康の6女である北条夫人が生母です。天正10年3月9日(1582年)渡邊加兵衛久郡によって新府城から甲斐国山梨郡鎮目村に落ち延びますが、翌年3月7日に3歳で病死します。3男・武田勝親は、北条氏康の6女である北条夫人を生母として天正8年(1580年)に生まれました。武田勝親は、天和10年(1582年)に栗原左衛門尉によって大菩薩峠を越えて鎌倉を経て摂津国尼崎藤田村まで落ち延び、浄土真宗本願寺派の僧侶として天和2年(1682年)まで生き享年103歳でなくなっています。他にも、出家した4男・本光信継庵主 はじめ、長女・林葉大姉や貞光大姉などがいます。
武田勝頼の結婚相手の女優は誰?
山之内すず
武田勝頼(眞栄田郷敦)には、正室・龍勝院と側室・北条夫人と側室・甲斐高畑の女の3人が妻とされていますが、武田次郎正室・林葉大姉・貞光大姉の母親が不明なのでもう少し妻が多かったかもしれません。龍勝院は、織田信長(岡田准一)の姪で養女として武田家に輿入れしていますが、女城主で知られる岩村城主の3男・遠山直廉の娘です。当時、敵対している武田家に輿入れしている事から気が強く、肖像を見る限り武田勝頼(眞栄田郷敦)より大きく描かれているので身長が高かったと考えられます。龍勝院は、菜々緒が適役と言えます。北条夫人は、鎌倉幕府を築いた北条氏に連なる後北条氏第3代当主北条氏康の6女です。北条夫人は、2男・周哲大童子をはじめ3男・武田勝親や3女貞姫を産んだとされていますが、名前や容姿など詳細はわかっていません。しかし、名門とされる北条氏の6女なのでわがままで元気だったと推測されるので、山之内すずが適役と言えます。甲斐高畑の女は、4男・本光信継庵主を武田勝頼(眞栄田郷敦)自害後に産んでいるとされていますが、詳細な事は何一つわからない側室です。
南 沙良
武田勝頼の妻は、正室の龍勝院と側室(後妻)の北条夫人がいます。しかし、龍勝院は武田氏が亡ぶ11年前に亡くなっており、武田氏滅亡時のヒロイン的な存在としては北条夫人のほうが良く知られています。わずか14歳で嫁いできた北条夫人はその5年後に夫とともに戦って散ったのです。政略結婚ではありましたが、勝頼と北条夫人の間には確かな愛があったという伝承が数多く残っています。そんな一途なヒロインが今回の「どうする家康」に登場するのだとしたら、南沙良さんなどが美しさと芯の強さから適任ではないでしょうか。
武田勝頼の最期
運が悪い?
武田勝頼(眞栄田郷敦)は、天正10年(1582年)の甲州征伐に備えて山梨県韮崎市に新府城を築城しますが、木曾義昌や穴山梅雪など家臣団に裏切りが続いたので新府城を捨てて大槻市の岩殿城を目指します。家中でも信頼を寄せていた小山田信茂に裏切られ、岩殿城を後にして先祖の墓がある天目山の栖雲寺を目指します。しかし、栖雲寺の約7km手間で妻子とともに自刃し、京都で晒し首とされました。武田信玄の急死に加えて、3ヶ月もしないうちに織田信長がいなくなると言う運の悪さに…。
自刃のシーンが見どころ?
武田勝頼の没年は36歳と言われています。偉大過ぎる父親の存在に押しつぶされそうになりながらも、懸命に甲斐武田氏を守るために戦いましたが、周囲は徳川家康率いる徳川家の勃興、あまりに強大な織田家の軍勢に抗しきれず、次第に国力を削り取られるように失っていきました。最期にはわずかな手勢を率いて落ち延びることしかできず、織田家の家臣である滝川一益によってとらえられ、妻子とともに自害して果てることになったのです。数ある戦国大名の滅亡の中でももっとも悲劇性が高いエピソードとして語られることが多い勝頼の自刃ですが、家康とはそれほど年齢が違わない彼の生涯の終焉を、今回の「どうする家康」でも是非、丁寧に描いて欲しいと思います。
武田勝頼の性格について
短気かつ強引な性格?
武田勝頼(眞栄田郷敦)は、諏訪御料人の実家にあたる高遠諏訪氏の家督を継いでいたので諏訪四郎勝頼と名乗っていた時期があります。しかし、武田嫡男の武田義信が廃嫡されただけでなく、次男・海野信親が盲目となり、三男・武田信之が10歳で早逝したの武田勝頼(眞栄田郷敦)は労することなく家督を継いでいます。武田勝頼(眞栄田郷敦)は、兄がいるから家督を継げない挫折感と労せず家督を手に入れた他力本願の両方を味わっているので、物事を簡単に見る浅い思慮と自分を軽んずる家臣たちに対しては、短気かつ強引な性格が見え隠れするようです。
寂しい人
勝頼は、偉大過ぎる父親の信玄公の影で、どうしてもそこに並べない、それを超えられない自分に対して大きなコンプレックスがあったのではないでしょうか。その後を継ぐことに対しては家臣の期待や、大きすぎるプレッシャーがあったのではないかと思われます。そしてまた、力不足はそのまま甲斐武田氏の、そして甲斐国の衰退に直結し、実質的には彼の代で甲斐武田氏が滅んでしまったのです。ドラマや小説などの中にいる勝頼像は、父に愛されたかったけれど、愛されなかった寂しさや、期待に応えられなかったことによる鬱屈を抱えているという描写が多かったのですが、彼は「寂しい人」だったのではないかと推察しています。
武田勝頼を演じる眞栄田郷敦さんに期待すること
昨年出演していた「エルピス」で凄まじいばかりの存在感を残した眞栄田郷敦さん。阿部寛さん演じる信玄公の濃いキャラクターの系譜を見事に継いでいるキャラクターになると思われます。おそらく、年齢的にも家康とはバチバチのライバル関係になるはず…、直接対面するシーンはなかなか作れないとは思いますが、もし古沢良太さんの脚本でそんなシーンが見られたら、凄く嬉しいですね。最期の自害が最大の見せ場と言うのは寂しいですが、ドラマの中にしっかりと爪痕を残すキャラクターとして生きて頂ければ、眞栄田郷敦さんのファンとしては嬉しい限りです。