NHK大河ドラマ「どうする家康」で木下藤吉郎(豊臣秀吉)の最後がどのようになるのか気になったので調べてみました。有名な人物であるので過去にも大河ドラマで何回も取り上げられたことがある豊臣秀吉。今回はどのような感じで描かれるのか楽しみですね。豊臣秀吉を演じるムロツヨシさんの演技についても書いていますので参考にしてみてください。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)の父親と母親について
父は織田家の足軽と伝わっている木下弥右衛門や織田信長の家に茶坊主として仕えていた竹阿弥とも言われていますが、史実がなく、不明です。母親は天瑞院春岩(大政所)とされています。天瑞院春岩は、冠位二位尼君・従1位の院号と法名を合わせたものであり、木下藤吉郎(ムロツヨシ)を出産した頃は仲と呼ばれていました。大政所が木下弥右衛門が亡くなった後、竹阿弥と再婚したので、どちらとも藤吉郎の父となっています。竹阿弥は、木下藤吉郎(ムロツヨシ)の継父かつ豊臣秀長や朝日姫の実父とされています。しかし、木下弥右衛門は、天文12年1月2日(1543年2月5日)に亡くなっているので、天文9年(1540年)誕生の豊臣秀長と天文12年(1543年)誕生の朝日姫は竹阿弥ではなく木下弥右衛門の子と言えます。
木下藤吉郎と織田信長、家康、淀殿との年齢差
木下藤吉郎(ムロツヨシ)は、天文6年2月6日(1537年3月17日)に誕生しています。織田信長(岡田准一)は、天文3年5月12日(1534年6月23日)に誕生しており、年齢差は7歳歳下です。徳川家康(松本潤)は、天文11年12月26日(1543年1月31日)に誕生しているので、年齢差は9歳年上です。浅井茶々こと淀の方は、織田信長の娘と考えていた浅井家の系譜には記載されておらず生誕時期が不明であり、一般的に1569年の誕生と推測して木下藤吉郎(ムロツヨシ)とは年齢差が32歳です。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)に関係した有名なエピソード
墨俣一夜城(すのまたいちやじょう)
美濃国では斎藤道三(不明)の孫の竜興(不明)が信長(岡田准一)に敵対していましたが、木曽川と長良川の合流点近くの墨俣を押さえなければ、美濃の侵入は不可能でした。しかし、木曽川の対岸にある敵地に城を作ろうというのですから、敵の攻撃を退けながら、しかも短期間で城を完成しなければなりません。このような仕事を誰も進んで引き受けようとしませんでしたが、信長は「おまえはどう思うか。」と藤吉郎(ムロツヨシ)に尋ねました。そのとき、すかさず彼は「どなたもいらっしゃらなかったら私が受けたまわりましょう。」と言い切ったのです。藤吉郎はかねてからの知り合いである蜂須賀小六(不明)らの野武士を大勢集め、わずか1週間ほどで城を作ってしまいました。
備中大返し
木下藤吉郎(ムロツヨシ)と言えば、備中高松城から摂津国・山城国の国境までの約230kmを約10日間で移動した備中大返しが有名であり、天王山の戦いと称された山崎の戦いで明智光秀(酒向芳)を討伐したとされています。山崎の戦いに勝利した事と事前の周到な根回しが功を奏して、清洲会議で主導権を握り天下統一の足掛かりを作ったとされています。しかし、毛利輝元は、関ヶ原の戦いに臨む際に広島から大阪城まで3日で10,000人以上の戦力を移動させたとされ、備中大返しも事前の手配があれば驚く事ではないとされています。特筆すべきは、7000通以上の書状が残されており、織田信長(岡田准一)の様に割り当てるだけでなく事細かに支持していた事執念深さが木下藤吉郎(ムロツヨシ)の天下統一の根幹とされています。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)の子供について
木下藤吉郎(ムロツヨシ)には、石松丸・鶴松・秀頼などの3男1女の子供がいました。石松丸・豊臣秀勝は、側室・南殿を聖母とする木下藤吉郎(ムロツヨシ)の庶長子であったが、天正4年10月14日(1576年11月4日)になくなっている子供です。長女は、名前すら判明しない女児であり、豊臣秀勝と同様に早逝している子供です。豊臣秀吉鶴松は、木下藤吉郎(ムロツヨシ)53歳の時に山城国淀城で誕生したとされ、数え年3歳でなくなっています。豊臣秀頼は、文禄2年8月3日(1593年8月29日)に誕生したものの慶長3年8月18年(1598年9月18日)に豊臣秀吉(ムロツヨシ)がなくなり、方広寺鐘銘事件を発端に勃発した慶長20年5月8日(1615年6月4日)の大坂夏の陣で自害しています。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)の正室、側室について
10人以上の側室
木下藤吉郎(ムロツヨシ)の正室は、木下藤吉郎(ムロツヨシ)の書状ではねねと表記されている高台院であり、高台院は杉原定家と朝日殿の次女です。側室・淀殿は、織田信長(岡田准一)の妹・お市の方(北川景子)と浅井長政(大貫勇輔)の浅井三姉妹の長女であり、豊臣秀頼の生母です。南殿は、石松丸と呼ばれた庶長子の豊臣秀勝と女児を産んだ側室ですが、2人の子供が早逝した事で竹生島の宝厳寺に出家しています。他には、三浦能登守の娘で宇喜多秀家の生母である円融院や後に伊達政宗の側室となった香の前など10人以上の側室がいました。
正室は浅野長勝の養女の高台院で、通称は北政所と呼ばれています。藤吉郎との間に子供ができなくて、藤吉郎の子供は全員側室などの子です。側室は浅井長政の娘の淀君です。淀君は賤ヶ岳の戦いで藤吉郎に助けられたという縁があります。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)の最期
豊臣秀吉の病名は?
木下藤吉郎(ムロツヨシ)は、慶長3年(1598年)の春には盛大な花見を催していたものの5月頃から急激に衰えを見せ、慶長3年8月5日に徳川家康(岡田准一)・前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家を五大老に確定させた豊臣秀吉遺言覚書を残しています。追伸では、浅野長政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家の5奉行にも5大老と同様に秀頼のサポートを厳命しています。木下藤吉郎(ムロツヨシ)は失禁を重ねていた事から脳梅毒や認知症などの数多くの病名があげられています。宣教師のフランシスコ・パシオの報告書によれば、臨終間際に錯乱状態になったとされているので脳梅毒か認知症が死因と考えられます。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)の性格
几帳面で意外と執念深い性格
木下藤吉郎(ムロツヨシ)は、明るく親しみやすい人間性豊かな性格と考えている人が多く、織田信長(岡田准一)は執念深く意趣返しをしなければ気が済まない冷酷なイメージを持っている人が大半を占めていますが、全く逆の性格のようです。織田信長(岡田准一)は、天下布武でもわかる様に武力で天下統一を目指した真っ直ぐな人物ですが、木下藤吉郎(ムロツヨシ)は人心を操り不和や裏切りを起こさせる策略が得意な性格のようです。几帳面な性格であるものの自分に対する攻撃や侮辱はいつ迄も忘れない執念深さがあり、7,000通にも及ぶ書簡の中には済んだ話を蒸し返す書状も発見されているとのこと。木下藤吉郎(ムロツヨシ)は、ネチネチと蛇の様に執念深く人を信用しない人物だったのかもしれません。意外ですね〜!
木下藤吉郎(豊臣秀吉)を演じるムロツヨシさんの演技
ムロさんの演技は元々喜劇役者であるためにひょうひょうとした間やテンポのずるい演技であり、実際に「どうする家康」でも過去回の「麒麟がくる」の佐々木蔵之介さんとは違う藤吉郎像を作り上げています。ムロさんが笑う演技では何かを企んでいる感じも見受けられ、それを楽しんでいるようにも見受けられ、それが藤吉郎にぴったりだと思います。