どうする家康に登場する柴田勝家の最後についてどうなっているのか気になったので調べてみました。柴田勝家はお市の方と結婚しますがその経緯についても気になるところです。また柴田勝家を演じている吉原光夫さんについてもどういう人なのか簡単に書いていますので参考にしてみてください。
柴田勝家の父親と母親について
柴田勝家(吉原光夫)は、尾張国愛知郡下社村に下村城を築城した柴田勝義が父親とされていますが、柴田勝義が足利尾張守家4代当主斯波高経の4代孫としている事の信憑性が低いことから柴田勝家(吉原光夫)の両親は不明とするのが正確です。柴田勝義は、室町幕府第9代将軍足利義尚と斯波義連に仕えた柴田勝重の息子であり、柴田勝重は明応3年(1494年)に下之一色城の城主でした。また母は不明です。
柴田勝家とお市の方、徳川家康との年齢差
お市の方との年齢差は25歳
柴田勝家(吉原光夫)は、両親が確定されていない事から生誕時期が大永2年(1522年)から享禄3年(1530年)と考えており、大永6年(1526年)説や大永7年(1527年)説があります。柴田勝家(吉原光夫)は、柴田氏所縁の真宗高田派明徳寺の伝承では享禄3年(1530年)に誕生し、天文17年(1548年)18歳の時に初陣したとされています。しかし、お市の方と結婚したのが、一般的に清洲会議が開かれた天正10年(1582年)で柴田勝家(吉原光夫)が59歳の時であり、天正11年(1583年)4月に北ノ庄城の戦い時の柴田勝家(吉原光夫)が享年62とされている事から大永2年(1522年)とされています。お市の方(北川景子)は、自害時の天正11年4月24日(1583年6月14日)に享年37歳であったことから逆算して天文16年(1547年)に誕生したとされ、年齢差は25歳とされています。徳川家康(松本潤)は、天文11年12月26日(1543年1月31日)に誕生しているので、一般的に年齢差が11歳差とされています。
柴田勝家に関係した有名なエピソード
柴田勝家(吉原光夫)は、鬼柴田や瓶割り柴田の2つ名を有する武将です。柴田勝家(吉原光夫)は、水に窮している事実を隠す為に六角承禎の使者平井甚介を欺き、元亀元年(1570年)6月16日早朝に薙刀の石突で水瓶を割り奇襲をかけた長光寺城の戦いが有名です。また、柴田勝家(吉原光夫)は、清洲織田氏を牛耳っていた坂井大膳の弟・坂井甚介の討伐や30騎を1人で倒した萱津の戦いです。しかし、稲生の戦いが、柴田勝家(吉原光夫)の転機となった戦いです。柴田勝家(吉原光夫)は、稲生の戦いで織田信房と森可成を退ければ織田信長(岡田准一)を打ち取れるところまで迫るものの敗退し、柴田勝家(吉原光夫)は、織田信長(岡田准一)の実母・土田御前(檀れい)の取りなしで助命されて織田信長(岡田准一)に忠誠を誓う事になりました。
織田信長(岡田准一)が1582年に本能寺の変でこの世を去ったため後継者問題を話し合う清洲会議が開催され、羽柴秀吉(ムロツヨシ)など織田家の重心たちと織田家の後継者を巡る話し合いを柴田勝家(吉原光夫)は行いました。元々織田家の筆頭格の重臣であった柴田勝家(吉原光夫)は農民上がりの羽柴秀吉(ムロツヨシ)に対して好意的な感情を有していませんでした。勝家(吉原光夫)としては、明智光秀(酒向芳)を討ち、織田家の中で急速にその存在感を増す秀吉(ムロツヨシ)を抑えたい気持ちもあり織田家の後継者問題で秀吉(ムロツヨシ)と決定的な意見の対立を行ってしまいます。
柴田勝家がお市の方と結婚した理由
柴田勝家(吉原光夫)とお市の方(北川景子)との結婚は、天正10年(1582年)6月27日に開催された清洲会議で決定されました。豊臣秀吉(ムロツヨシ)は、足軽時代からお市の方(北川景子)に憧れていたので明智光秀を討伐した勢いで側室に考えた節がありますが、恋愛結婚した北政所の存在がネックとなって断念したとされています。当時、59歳で独身でお市の方(北川景子)に好意を持っていた柴田勝家(吉原光夫)と結婚したと言われています。しかし、背景には、柴田勝家(吉原光夫)が擁立した三男信孝ではなく、豊臣秀吉(ムロツヨシ)が擁立した嫡孫秀信を後継者とした事に柴田勝家(吉原光夫)の反発を抑える為だったとも言われてます。
清洲会議では、羽柴秀吉(ムロツヨシ)の織田家における影響力が増す一方で、柴田勝家(吉原光夫)は次第にその影響力を無くしていきます。このままでは織田家は秀吉(ムロツヨシ)に乗っ取られてしまうのではないかと強い危機感をお市の方(北川景子)は抱いていたのではないかと推察されます。また戦国の世とはといえ、お市の方(北川景子)の夫である浅井長政(大貫勇輔)を死に追い詰めた秀吉(ムロツヨシ)を許せない感情も重なり織田家を秀吉(ムロツヨシ)から守りたいと思い織田家の重臣の筆頭格の柴田勝家(吉原光夫)との結婚をお市の方(北川景子)は決断したのではと考えています。
柴田勝家とお市の方との直接の子供、結婚生活
柴田勝家(吉原光夫)とお市の方(北川景子)結婚生活は、天正10年(1582年)8月20日に岐阜城で婚儀が行われ、柴田勝家(吉原光夫)と共に自害する天正11年(1583年)4月24日までの約8か月と非常に短いものでした。その為、柴田勝家(吉原光夫)とお市の方(北川景子)との間には直接の子供はおらず、織田信長(岡田准一)の娘と噂される茶々と浅井長政(大貫勇輔)の娘である初と江の姉妹がいます。北ノ庄城落城時には、落ち延びろと提案する柴田勝家(吉原光夫)に対して、共に自刃する事を望んだ事から夫婦仲は良かったと思います。また、血のつながらない3姉妹を可愛がったとされ、3姉妹を豊臣秀吉(ムロツヨシ)に依頼しています。
柴田勝家の最期について
柴田勝家(吉原光夫)は、天正11年(1583年)4月20日起こった賤ヶ嶽の戦いに敗北し、同年4月23日から24日にかけての北ノ庄城の戦いで天守に籠城して切腹しています。柴田勝家(吉原光夫)は、4月23日の夜に二の丸と三の丸の兵を除く城に残る全ての人を天守閣に集め、お市の方(北川景子)と共に飲めや歌えの宴を催したとされています。柴田勝家(吉原光夫)は、24日午前4時から始まった豊臣秀吉(ムロツヨシ)の猛攻に耐えられず、梯子を外された天守閣でお市の方(北川景子)をはじめ一族の子女を亡き者にしました。柴田勝家(吉原光夫)は、Tの字に腹を割き内臓を掻き出したとされ、柴田勝家(吉原光夫)に続き家臣80人余り切腹すると共に中村聞荷斎が天守閣ごと爆破しました。戦国時代には、城主だけでなく家臣が殉死するのは珍しいことではありませんが、天守閣ごと爆破するのは少なく柴田勝家(吉原光夫)らしいと思えます。しかし、自分の遺体すら豊臣秀吉(ムロツヨシ)の手に目に晒したくないほど豊臣秀吉(ムロツヨシ)を嫌っていたのかと思う一方で、最後までお市の方(北川景子)に執着した豊臣秀吉(ムロツヨシ)に何一つ渡さない為に爆破したのかとも思います。
柴田勝家の性格について
柴田勝家(吉原光夫)は、イエズス会に最も勇猛で果敢な人物と伝えられており、真面目で律儀な性格と言われています。また、賤ヶ岳の戦いで裏切った前田利家を責めずに豊臣秀吉(ムロツヨシ)を頼る様に助言し、ルイス・フロイスに織田信長(岡田准一)の様だと治世面でも褒められています。しかし、豊臣秀吉(ムロツヨシ)は、用意周到な根回しをして準備万端で清洲会議に臨んでいるにもかかわらず、柴田勝家(吉原光夫)は、豊臣秀吉(ムロツヨシ)を格下に見て何の準備もせずに清洲会議で苦渋を舐めた愚か者です。武力頼みで生きて来た古い考えから脱却できない猪突猛進型の性格であり、実際に観音寺城の戦いでは瓶割り柴田と称される一か八かの無謀な戦いをしています。自分の生き方に誇りを持ち格下の意見に耳を傾けることができない狭量な性格なだけでなく、人物の能力を見極めることができない愚鈍な人物と言えます。実際に北陸侵攻では、豊臣秀吉(ムロツヨシ)と軍議で対立した際には、織田信長(岡田准一)の命を無視して戦線を離脱したこともあります。苦境にあっても自己の怒気を優先する破滅型の性格だと思います。
浅井長政を演じている吉原光夫さんのプロフィール
生年月日は1978年9月22日生まれで2023年2月現在で44歳です。身長は186 cm、当時の日本工学院八王子専門学校演劇俳優科を卒業後に劇団四季に入団し、「ジーザス・クライスト・スーパースター」をはじめ「美女と野獣」や「ジョン万次郎の夢」など多くの作品に出演されていました。2007年に劇団四季を退団すると共に演出家の小川絵梨子の師事し、2009年にArtist Company響人の設立に参加。現在では、Artist Company響人だけでなくテレビドラマや映画に出演。NHK の連続テレビ小説エールでは、無骨な職人岩城新平(いわき しんぺい)を演じて話題となりました。2016年に元宝塚歌劇団宙組で娘役だった和音美桜と婚姻届を提出し、2019年に第一子をもうけています。和音美桜さんは、歌唱力に定評のある娘役で「ウエストサイドストーリー」や「維新回天・竜馬伝!」など数多くの作品に主演されています。